取り残された異国

万博における「異国」の役割

万博の最盛期、異国感は、近未来感という特大コンテンツに比肩する最大級のコンテンツであり、集客の要でもありました。しかしそれは、現代的視点から見ると多分に問題をはらむものでした。

 

19,20世紀の人間動物園

「民族学的展示」といえば聞こえは良いですが、実際に博覧会の格好の客寄せは、「未開の人間の展示」でした。

この時代のパリ万博では、黒人村というパビリオンが作られ、2800万人もの観客が訪問した他、日本もまた、伝統芸能や芸者といったエキゾチズムで人気を博しました。

さらにセントルイス博覧会ではより社会進化論と人種差別主義を前面に打ち出し、「野蛮や未開状態から文明に至る実際の人間の進化を示すこと」を使命に掲げます。未開代表として「フィリピン村」の展示など、諸民族の伝統的居住空間を展示会場に作り、奇異の目にさらされながら展示物である人間がその場で生活させられたのです。

21世紀の「異国」

こうした植民地主義・帝国主義最盛期のようなあからさまな差別的表現としての「異国」は、民族自決や多文化主義の一般化によって、徐々に減少していきます。

しかし現代の万博もまた、かつてとは違う意味で差別的な表現にまみれてます。

奥からフランス館、ルーマニア館

この写真は、2017年アスタナ万博のものですが、左のように資金力のある欧州の国が自国の大きな展示区画を持つのとは対照的に、右の写真のアフリカ館では、アフリカ大陸各国が小さな露店のような区画で出し物を出しています。

しかも、アフリカに限らず、途上国の多くは、展示内容もテーマの展示というよりただの物産展のような様相なのです。

これは、現代の万博のテーマが世界的な課題の解決を設定しているため、課題解決のための資金・技術力のある国とない国とで明瞭な差がでてしまうためです。国力の差がパビリオンの大きさや内容で一目瞭然になるようなあからさまな構成は非常に差別的ですね。

※テーマの変遷については、詳しくはこちらをご覧ください。

時代遅れの万博

セントルイス博のようなあからさまな社会進化論的様相をなくしても、やはり万博の裏には「すべての国が進歩して先進国のようになることを目指すべき」というメッセージがあるように思えてなりません。

万博は課題解決の場となりましたが、解決する主体は先進諸国ばかりであり、普遍的正義や国際協調という現代的な価値観は万博の場では見えてこないのです。

 

異国感の減衰

以上に見たように、万博における「異国」には負の側面があったことは否定できませんが、それでも大きな集客要素であったことは事実です。

さらに、特に20世紀後半の大阪万博の盛り上がりなどにおいては、負の要素だけではなく、万博を通して異国を知り、自国以外の世界に興味を持ち、知見を得るという積極的な効果もありました。こうした点は評価されるべきでしょう。

しかし、交通技術が発展し、自由に異国へ移動できる現代において、「異国感」の万博における特別感は大きく減衰しているといえるでしょう。実際に異国を訪れなくても、ネット空間、様々な民間のイベント事業など、異国と接する機会は格段に増えています。

これからの万博では、「異国」という万博生来のコンテンツをどのように扱っていくのでしょうか?

次世代の万博

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